一、平安時代の宝金剛寺

開山杲隣大徳

 弘法大師・空海は在世中、数多くの人にその法を伝えたが、中でも特に空海が真言密教を伝えた直系の付法の弟子として十人の名が挙げられている。ふつう十大弟子と呼ばれる。『弘法大師十大弟子伝』等には、その名が列記され、この中に「傳燈大法師位 杲隣」の名がある。「ごうりん」と読む。大法師位は、奈良・平安時代初期における僧階の最上位である.杲隣は十大弟子の一人であり、さらには四哲、四大弟子の一人ともいわれる。杲隣大徳・杲隣禅師と呼ばれる。
 宝金剛寺は、杲隣大徳によって天長六年(八二九)八月に創建された。国府津山医王院と号し、宗派は東寺真言宗。本山は京都の東寺(教王護国寺)てある。空海がご入定されたのは、承和二年(八三五)三月二十一日である。宝金剛寺の開創は、大師ご入定の七年前に当る。
 杲隣は、神護景雲元年(七六七)に生まれる。初めの名は高隣、のち高を杲と改めた。『大師弟子伝』『大師弟子譜』等には、その種姓を言うことなし、とある。いずれの所の人か、何の姓かは分らない。神護景雲元年というと、伝教大師・最澄と同年である。宝亀五年(七七四)に生まれた師の空海よりは七歳の年長になる。
 この杲隣の生年および出家のことは『弘法大師行状要集』に承和四年(八三七)四月五日、東寺の定額僧五十人を改めて二十四人に奏定する記載がある。その定額僧の第二に、「大法師位杲隣年七十一、﨟舟」とある。聰は臘の俗字で、僧侶の得度後の年数のこと。つまり僧侶になってからの年数である。定額僧というのは、官寺である勅願寺に置かれた定った供僧のこと。勅願寺に置かれた二十四人の定額僧の第二にその名が挙げられている。杲隣は初め南都東大寺に住して教学を学び、学識をつんで名声が高かった。空海は大同元年(八○六)十月に唐から帰朝、しばらく鎮西に居り、勅によって入京、大同四年(八○九)に高雄山寺に住するが、杲隣は帰朝早々の空海の学徳を慕って弟子となる。そして弘仁三年(八一二)十月、空海は高雄山寺に三綱を置き、杲隣を抜擢して上座とした.三綱というのは上座・寺主・都維那の三僧職のこと。寺院において多くの僧侶を統卒し、綱規を維持し、庶務を処理する役職である。杲隣はその筆頭に任ぜられた。このことについては空海の漢詩文集『性霊集』巻九の「高雄山寺択任三綱之書」にくわしい。この時、杲隣四十六歳。師の空海は三十九歳であった。
 弘法大師の弟子伝や大師の書簡の中に出てくる杲隣は″東大の杲隣″嶺東の杲隣″と呼ばれて、弟子の筆頭にその名が見える。つまり、東大寺出身の杲隣、あるいは富士山の東の杲隣という意である。また『弘法大師弟子譜』には「豆州修禅寺沙門杲隣傳」とある。これによると、「天長十年(八三三)に大師とともに高野山で修行、その跡が修禅院である。大師寂後、京都に修学寺を開き、伊豆に修禅寺を建てた」とある。
 さてここで当寺の創建のことであるが、天長六年(八二九)建立とすると、杲隣六十三歳。その頃の足跡は、…天長六年宝金剛寺建立ー天長十年高野山修行ー承和二年(八三五)大師入定ー師の寂後、修禅寺建立…となる。杲隣が大師の寂後、はじめて東に来て、伊豆修禅寺を建てたとすると、大師の書簡に″嶺東の杲隣″の呼称が出てくるのはおかしい。これから考えると、すでに天長六年、一度東国に来ており、大師ご入定の承和二年以後に、再び東国を訪れて伊豆に来たことになる。

密教の東国流入

 さてここで、京都を遠く離れた関東に、開宗早々の密教が果して流入されたかということである。いま開宗前の地方仏教界を見るとき、『類聚国史』等によれば、すでに奈良時代、聖武天皇のとき国毎に国分寺・国分尼寺が造営され、講読師の前身である国師が鎮護国家の仏事を担当し、国分二寺を中心に地方庶民にある程度の仏教思想を植付けた。また密教がすでに空海以前に雑部密教としてわが国に伝えられていたことは、正倉院文書によっても種々の密教教典の存したことが分り、密教法具の伝っていることでもうなづける。
 平安時代に入ると、最澄、空海はともに自宗の地方への宣揚・教化をはかっている。伝教大師・最澄は弘仁六年(八一五)、四十六歳の秋から翌七年春にかけて、美濃から信濃を経て上野・下野と巡り、宝塔を造立、東国に寺を建てたことが、『元亨釋書」にも記され、確実とされている。
 空海については、東国下向のことが少数の書物に見える。『修禅寺縁起』や『遣告諸弟子等』にも「伊豆国桂谷山寺に往く」とあり、また『日光山瀧尾建立草創日記」にも「花の京を出で、東国に下向、先ず伊豆桂谷寺に逗留。当山に下着す」とある。もちろんこれら書物によって空海下向の事に信を置くことは出来ない。しかし下向のことは確かでなくとも、大師思想の伝ったことは考えられる。最澄が東国に下向した弘仁六年、この春三月から四月にかけて空海は弟子を東国に派遣していることが『性霊集』などにも見える。
 国府津の地は、古代の行政区画であった五畿七道のうちの東海道の通筋に当る。この東海道は、西の伊賀から東へ、三河・駿河・伊豆・相模・武蔵等の国々を通って常陸まで通じる官道である。駿河から相模への道は足柄峠を越えた。つまり国府津へ出る道は、御殿場ー足柄峠ー松田ー国府津(小総)の道順となる。箱根越えは中世からの道である。
 これらを思考すると、空海の弟子が東国に巡錫に来たとしても、不思議はなく、弟子によって寺が建立されたとしても、首肯される。
 現在、杲隣に関して当寺に残るものとしてはまず諸記録。ついで寺の縁起・過去帳・不動明王胎内文書・寺社奉行所あての書上・由緒書等の文書。一般書としては『新編相模国風土記稿』等、それと墓地に「開山塔」がある。一米半程の丸い卵形の自然石である。杲隣の歿年は、一般歴史書には「承和四年(七三七)七十一歳以降」となっているが、寺の開山塔には、はっきり歿年が彫られている。古い過去帳と同じ年月日である。正面に彫られた文字は「※※梵字※※當山開基禅師杲隣大徳」、裏面には「承和十一甲子天十一月七日」とあり、杲隣の示寂は承和十一年(八四四)、七十八歳である。

中興一海と地蔵尊縁起

 杲隣大徳が創建した後、久安元年(一一四九)一海已講が中興するまで、これといった記録はない。一海は永久四年(一一一六)に生まれる。若くして碩学として知られ、三宝院流の祖定海、ついで元海について法を受けた。のち醍醐山松橋無量寿院第二世となり、松橋流を開いて、その祖となった。治承三年(二七九)九月二十六日寂、六十四歳であった。已講とは宮中の御斎会等の勅会の講師を勤めた人をいった。寺に残る江戸時代の寺社奉行所への言上覚に「一海已講、仏像、霊宝等御持来候」とあるが、これだけで、寺に何を持って来たのかは不明である。
 この頃、寺の名は地青寺(ぢしょうじ)といった。この地青寺を一海已講が中興して問もない頃、平氏の嫡家小松内大臣平重盛が、かねて当寺本尊地蔵菩薩を信仰し、妹の高倉中宮徳子(建礼門院)の安産を祈願して霊験があったので、寺領十一貫二百文を寄進した。治承二年(一一七八)である。そしてこの寺領は江戸時代に至っても、他の寺領とともに、代々安堵を受けている。
「本尊地蔵菩薩略縁起」がある。その抜粋を記そう。虫の喰った版本である。

往昔治承二年建礼門院御難産ノ時重盛公兼テ当寺ニ帰依厚キユヘコノ地蔵尊二信心ヲコラシ尊前二丹誠ヲ抽ラレシガ霊験イチジルシク安徳帝御安産アラセラレシユへ信心弥増世二生産二悩メルモノヲスクワンガタメコノ尊二模写シ一国二一体ヲ安置ナシアマネク世ノ人二弘誓深如海ヲ仰セタマフ世二帯解地蔵易産地蔵ト唱フルハ此ノ謂ナリ

と記し、さらに信心帰依するものは、現世の厄難を払い、未来は必ず極楽浄土に引導されると、その功徳を述べている。
 重盛は治承三年(一一七九)七月二十九日に亡くなり、一海は同じ年の九月二十六日に遷化した。一海と重盛は同時代に活躍したことが分る。
 この頃は平氏が政治の実権を握っていた。保元・平治の乱(平治元年ー一一五九)後、平氏は源氏をおさえた。相模地方も同様であった。平氏全盛時代の平家家人の調査によると相模国三十八氏がその傘下に見出されると、『神奈川県の歴史』(神奈川県発行)は記している。そのように平氏の勢力下にあったので、重盛に関係の深い荘園が相模にできてもうなずかれる。

*本文中に記述の図版等は後日掲載いたします